2010年公開のポストアプカリプス(終末後)作品「ザ・ウォーカー」を鑑賞した。
改めて見ると、本作は割と娯楽色の強い作品だが、考察し該のある深みのある作品でもあるので、思いっきり考察してみる。
※当記事では思いっきりネタバレしているので、未鑑賞の方は出来れば鑑賞後にご覧ください。
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※関連記事は最後にまとめて紹介します目次
予告編(トレイラー)
作品情報
公開年 | 2010年 |
---|---|
原題 | The Book of Eli |
上映時間 | 118分 |
製作国 | アメリカ |
監督 | ヒューズ兄弟(アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ) |
脚本 | ゲイリー ウィッタ |
ジャンル | アクション、ヒューマンドラマ、終末モノ |
主要キャスト |
デンゼル・ワシントン(イーライ) ゲイリー・オールドマン(カーネギー) ミラ・クニス(ソラーラ) レイ・スティーブンソン(レドリッジ) ジェニファー・ビールス(クローディア) |
配信サイト・媒体 |
市販DVD Amazon Primeビデオ Netflix…他 ※記事公開時の情報です |
考察①:イーライは盲目だったのか?
※ここでは、僕の行き過ぎた考えが濃いめに含まれています。飽くまで「1人の鑑賞者の感想の延長線上」という感じで捉えてください。
本作のどんでん返しとして、「イーライが持っていたHolyBible(聖書)が、実は点字だった」という事が明かされ、そして直後にイーライの目のアップシーンがある。
ここで初めて我々は、「イーライは目が見えない(かもしれない)」という事実に気付く。
ただ、他のブログ様でも
・イーライは盲目では無い
・イーライは弱視(盲目程ではない)
・イーライは盲目
と、いくつかの説に分かれるほど、本作内で「盲目じゃない」と思わせる描写が多いのが現状だ。
しかし僕は、「イーライは盲目である」と考えている。
以下が、「イーライが盲目である」と思わせる描写だ。
〇序盤、車ににじり寄る際、先にカバンをぶつけた
〇車内の白骨化した死体に、最初は気付かなかった?
〇序盤、イーライが建物に入り、食器棚の皿をスライドして「ガシャガシャ」音を立てている
〇首吊り死体の存在に、「匂い」で気付いた
〇音楽プレイヤーのバッテリーが切れてるのに、ボタンを押し続けるイーライ
〇複数人の敵と戦闘する際、トンネルに後ずさりする
〇トンネルでの戦闘後、自前のナタを投げ捨てるイーライ
〇道が二つに分かれており、その真ん中に看板が立っている時、イーライは太陽の方を見た
〇街での銃撃戦の際、敵が発砲した後にその敵を狙い撃ちしていた
というように、「イーライが盲目というのは無理がある」というのを覆す量で「イーライが盲目である」という暗示が含まれているので、僕は「イーライが盲目」だと確信している。
とりあえず次項で細かく解説する。
序盤、車ににじり寄る際、先にカバンをぶつけた
道路を歩くイーライ。
するとイーライは、止まっている車に気付き近づく。
イーライは、すぐにドアハンドルに触るわけでは無く、なぜかバッグを先に車のボディにぶつける。
たぶんだがこれは、イーライが盲目が故に、車との距離感が分からなかったのだと思っている。
だから、ぶら下げたバッグを差し出すようにしながら近づき、そのオブジェクトとの距離感を探っていたのだろう。
車内の白骨化した死体に、最初は気付かなかった?
イーライがその車を捜索したのは、恐らく何かしらの物資を探していたからだろう。
車のドアを開けたイーライは、まず白骨化した死体を見るような素振りをするが、それは一瞬だ。
我々からすると、「イーライはこの世界で長く生きているので、死体なんか見慣れている」という「終末世界特有のあるある」みたいに捉えてしまうが、それが上手いミスリードとなっている。
実際にイーライは、何か物資が無いかと真っ先にアクセル側に手を伸ばし、そこで「死体の足」に手が当たる。
するとイーライは即座に詮索を中断し、白骨死体の上半身辺りに目をやる。
イーライは、ここで初めて死体の存在に気付いたと考えられる。
序盤、イーライが建物に入り、食器棚の皿をスライドして「ガシャガシャ」音を立てている
「既に廃墟だから荒らしても良い」という、「ポストアプカリプス特有の行動」として捉えることも出来るが、「陶器をぶつけ合わせて、音を出して共鳴を感じている」と推測することも出来る。
イーライは、そうやって共鳴を感じて、部屋の状況を把握していたのではないだろうか。
首吊り死体の存在に、「匂い」で気付いた
序盤で登場した「首吊り死体」。
イーライが靴を拝借したアイツだ。
イーライは家の中で、ある部屋から何かしらの気配を感じ、その方面の扉を開く。
そしてそこには首吊り死体があり、イーライはビックリする。
しかし実際にビックリしたのは「ドアが壊れたから」であり、その死体には、直後に漂う死臭で気付いたようだ。
ただこれは、健常者でも似たようなリアクションをすると思うので、なんとも言えないところでもある。
音楽プレイヤーのバッテリーが切れてるのに、ボタンを押し続けるイーライ
廃墟で睡眠を取った後、音楽プレイヤーを操作するイーライ。
ディスプレイには「バッテリー切れ」と表示されているのに、イーライはいくつかのボタンを押し続ける。
これは、「イーライにはディスプレイが見えていない」という事の暗示だ。
イーライはディスプレイが見えないから、いくつかのボタンを押して、音楽プレイヤーからのレスポンスが無いことを確認していたのだ。
ただこれは「映画的な行動」でもある為、どちらにも取れる。
例えば、電話のシーンなんかでよくある、相手が一方的に電話を切った後、「ツー、ツー」っと明らかに会話が終了しているのに、「もしもし?もしもし?」と言い続ける現象。
この手の行動は、「登場人物がこの状況を受け入れたくない」と考えている事を鑑賞者に伝える場合に起こるので、ただ単純に「バッテリー切れをイーライが受け入れてない」だけなのかもしれない。
複数人の敵と戦闘する際、トンネルに後ずさりする
序盤で登場した「ヒャッハー集団」との戦闘の際、イーライは静かに後ずさりし、あえて暗いトンネルの中で戦闘を開始する。
ここは、「視覚効果」的な演出の為にトンネルを利用してるように見えるが、僕にはイーライに目的があったように思える。
イーライは目が見えないので、恐らく薄暗いトンネルで戦闘した方が有利だ。
それに、トンネルだから音が共鳴する。
その共鳴を利用し、敵の状況を分かりやすくしていたのでは無いだろうか。
トンネルでの戦闘後、自前のナタを投げ捨てるイーライ
これはちょっと考え過ぎかもしれないが、トンネルでの戦闘後、イーライはナタを地面に投げつける。
非常にクールなシーンだ。
初回では、「望んでいない戦闘だったから、勝ったとてイーライも感情的になっている」と捉えた。
しかし改めて鑑賞すると、「ナタを地面に叩きつけ、共鳴した金属音で敵の残党をチェックしていた」ようにも見えると気付いた。
「イーライが盲目かもしれない」という先入観の元の鑑賞だったので、こじつけっぽくはなっているが、決して無視は出来ない。
道が二つに分かれており、その真ん中に看板が立っている時、イーライは太陽の方を見た
「どちらの道を進むか」を迷ったイーライは、一旦太陽の方を見る。
恐らく、太陽の位置から自分が進むべき方角である「西」を導き出したのだろう。
イーライは、実際に目は見えなくとも、光は感じることが出来るタイプかもしれないし、温もりで日光を感じたのかもしれない。
街での銃撃戦の際、敵が発砲した後にその敵を狙い撃ちしていた
「目が見えないイーライに、銃が撃てるのか?」
という疑問。
しかし銃撃戦をよく見ていると、イーライは「敵が発砲したところへ向かって撃っている」と気付く。
ただこれも、ガンアクション系の映画ではありがちな描写なので、なんとも言えない部分ではある。
以上が「イーライが盲目である」に関する部分の考察だ。
次項からは別の考察に移る。
考察②なぜレドリッジはイーライを撃たなかったのか
イーライに発砲するも、何故か弾を外すレドリッジ。
二発目を打ち込むも、その弾丸もイーライの肩をすり抜け、自分の銃に違和感を感じるレドリッジ。
直後に激しい銃撃戦が発生するが、それがひと段落した後に、再度レドリッジはイーライに銃を向ける。
しかし、互いに見つめ合うだけで、レドリッジはゆっくり銃を下す。
レドリッジは、イーライから「神の力」的な何かを感じ、撃つのをためらったのだと考えられる。
だから、「撃たなかった」というより「撃てなかった」のでは無いだろうか。
イーライは神に守られている。
非常に映画的な展開ではあるが、だから被弾しないし、強敵をなぎ倒していくことができる。
そんなイーライの「凄み」に、レドリッジは気付いたのだろう。
個人的には、「カーネギー vs イーライ」の構図より、この「レドリッジ vs イーライ」の構図の方が好きだ。
終盤でイーライがカーネギーに撃たれるシーンで、レドリッジは「あぁ・・・」と、少し悔しがる表情をする。
それだけイーライに対して尊敬の念があったのだろう。
考察③イーライが撃たれた時に稲妻が走る描写
聖書では、イエスが死に直面した際、「雷が鳴った」と群衆が気付く描写がある。
僕は聖書を読んだことが無いが、たまたまこの話だけ聞いたことがあった。
イーライが撃たれた時に後ろの方で稲妻が走る演出は、聖書に則った描き方で、「イーライに神が宿っている」ことを表していたのだと思う。
考察④最後にバーに座り込む男は何者か?
この男は一体何者なのか?
彼は名前こそ与えられていないが、レドリッジの次に有能な、カーネギーの手下のようだ。
彼は、要所要所でレドリッジやカーネギーにアドバイスしている。
「もうすぐ日が暮れる。暗かったら彼らを通り過ぎても気付かないし、車のライトに気付いて隠れられる。」
「片道分のガソリンしか残っていません。(ソラーラを)追いますか。」
これらは彼のセリフだ。
少なくとも彼のセリフは、カーネギーやレドリッジの行動に影響を与えている。
彼は戦後に生まれた人物なので、「テレビ」が何かも知らなかったが、それでも有能なようだ。
そしてそんな彼が、何故最後にバーで立ち尽くしていたのか。
きっと、カーネギーに対して「この状況を収束できない」と目で訴えていたのだと思う。
あの状況では、カーネギーに対して下剋上の宣戦布告をしているようにも見えるが、どちらかと言うと「唖然」としていたように見える。
だからまだカーネギーへの忠誠心は残しつつも、「この暴徒化を止めることはできない」と訴えていたのだろう。
作中で彼の出番が少なすぎる為に、「一体あの男は何者か?」という疑問が生まれてしまった。
ここに関しては、ちょっと不親切な部分なのかもしれない。
感想
2019年8月26日追記。
何度目の鑑賞か忘れたが、久しぶりに観たので今度は「感想」を書く。
本作について、褒め称え点はたくさんある。
音楽、情景、心理描写、人物描写、演出全てが好きだ。
でも今回見直して特に心に響いたのは、「人間模様」だった。
本作は人間模様の描き方、もしくは魅せ方による心の揺さぶり方が上手い。
上手過ぎる。
例えばメインキャストの「イーライ(デンゼル・ワシントン)」と「カーネギー(ゲイリー・オールドマン)」の掛け合いもそう。
最初からBOSS vs BOSSの重厚感が感じられた。
「レドリッジ(レイ・スティーヴンソン)」と「イーライ」のやり取りも凄く好き。
イーライの凄みになんとなく気付くレドリッジの表情や、イーライが撃たれた時の残念そうな表情。
レドリッジは、敵でありながらちゃんと敬意を評しているように見える。
「レドリッジ」と「カーネギー」のやり取りもとても面白かった。
「ソラーラを俺にくれ」と言い出す時の、レドリッジのあの言い辛そうな表情・・・。
また、レドリッジが死ぬ瞬間、それを見届けるカーネギーの表情。
しかも、こういうエモーショナルなシーンでは、わざとらしいくらいに役者の顔にカメラがズームする。
こういう濃い演出も好き。
本作は、どのキャラクターも魅力的で、その魅力的なキャラクター達を随所で活かしてくれる。
でも多くは語らない。
最後の「謎の男」も不思議だし、そういうミステリアスさにも惹かれているのかもしれない。
「ザ・ウォーカー」の考察と感想。イーライは盲目か。最後の男は誰か等。:まとめ
●考察
・イーライが盲目かどうかは、具体的には語られていないのでどちらとも取れる
・最後にバーの椅子に腰かける男の正体は、カーネギーの手下。レドリッジが死んだので、恐らくあの町でTOP2くらいの影響力を持つと思われる。
・例の「バーの男」がカーネギーを見つめていたのは、恐らく「ここまで荒れたら、もう終息できません。」と訴えているものと思われる。
●感想
・人間模様の描き方が凄く良い。キャラクターが魅力的で、各キャラクター同士の掛け合いがほぼ全て面白い
・独創的で素晴らしい音楽
・各役者の演技も素晴らしい
・部屋の中のごちゃついた雰囲気なども良い
本作は、終末モノとしての世界観が、僕の大好きな「Fallout」というゲームに非常に良く似ている。
Falloutの名を広めた「Fallout3」の発売日が2007年で、本作の公開日が2010年であることを考えると、ウォーカーがFalloutに影響を受けたと考えることも出来る。
そんなFalloutは、映画のワンシーンをオマージュとして取り入れるなど、イースターエッグが数多く収録されている。
2015年にリリースされた「Fallout4」では、「ウォーキング・デッド」「ブレイドランナー(1982)」「エイリアン2(1986)」「グッドウィルハンティング(1997)」など、いくつもの映画オマージュがあった。
そして今年は「Fallout76」の発売が控えているので、そちらで是非「ウォーカー」のオマージュを入れ込んで欲しい。
追記:残念ながら、Fallout76自体があまり面白いゲームではありませんでした。たぶんウォーカーのオマージュも無し。
記事中に登場したリンク:
僕がFallout4(フォールアウト4)にドハマりした13の理由 | やるゲーブログ